鹿紙堂奇想譚

そらをふむ きみのあしおとを きいている

こんぱいにっき 文学を書く同人の政治的address(2) 

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読書会、古本市

文フリ後の平日は、出張があったり、通販の発送をしたりとバタバタし、イベントの疲れがあまり取れないまま次のイベントとなりました。土曜日に自治体の施設での読書会があり、自分の好きな本について語るとともに翌日の古本市の宣伝をし、日曜には本八幡屋上古本市でした。古本市に参加するのは初めてだったのですが、同人誌即売会と似ているところもあり、違っているところもあり、という感じでした。

似ているところ

本を売る場である。ZINEや同人誌なども売れる。売る本について売り手が詳しい。アマチュアが多く参加している(プロもいる)。出展者がほかの出展者の本を買ってくれる。

違うところ

お客さん(同人誌即売会でいうところの「一般参加者」)はお客さんのつもりできているので、小銭・千円札を用意するという習慣はなく、お釣りがすぐなくなる(いままで貯まっていた千円札と百円玉がすぐなくなりました)。屋外なので風で飛ぶからポスターや垂直方向への軽い掲示物は不可(設営時なんどか吹っ飛ばされたのであきらめた)。地元のひとがくる。古本なので予算感は低め。
開始前と閉場後に主催の方の挨拶がある。
主催の方にくさやをもらった(これは本八幡屋上古本市だからです)。

古いビルの四階まで本や設営用品を運ぶのが体力的にすこしきつかった。二の腕が筋肉痛になった。

モヤっとポイント①

※一般論として書いているので、発言をした方を攻撃したいわけではないです。
読書会や古本市の、普段同人誌を見慣れていない方、同人誌即売会に行ったことのない方を含めた場でよく言われたのですが、「これって同人誌なの?」ということ。いや、「これはわたしが出した同人誌です」って言ってるんだが……。厚みや、本の内容について、同人誌としては不審である、という感じで言われました。いや、同人誌だが……。どうもわたし以外の一部のひとと、わたしの同人誌観(?)はずれているようで、わたしは単に形態(商業出版ではない、個人や団体がつくったもの全般)としてこのことばを使っているのですが、発言をされた方としては「薄い、素人が作った拙いもの」として同人誌を認識しているようです。そういう認識だと、「同人誌」の中身に対して制約を設けることになるわけで、作り手としてはもったいないなあ、と思います。まあ、同人誌つくらないひとにはどうでもいいことだと思いますが。

わたしも同人誌を作り始めのころは、アマチュアが作ったものだから、拙くてもある程度は許される、まあ頒布数には影響するけど……という認識でおり、そこに安堵して作り続けていたのですが、そのスタンスをほかの本や作り手に向け、そこに限定して考えるのは違うよなあ、と思います。

モヤっとポイント②

歴史を題材にした、そこそこの冊数を参考文献に上げた小説を書いています、これがその本です、と言うと「博識ですね」とか「難しそう」と言われます。いや、こういうこと自体は良い悪いの問題ではなく、そう言うひともいるだろうというのはわかる。本に対する感覚というのは、これまでのそのひとの読書歴・傾向や、ジャンルに対する先入観というのが関係していて、それを書き手がどうこうできるわけではないです。わたしもテッド・チャンと聞くと「難しそう」と思ってしまう。同人誌即売会だと、事前に本の内容やジャンルを知っている方が買いに来られるので、ほとんどそういうことはないのですが、今回はよく言われました。
博識ではないし難しいものでもないのですが、まあこれは個人の感覚ですからね……。楽しいエンタメだと思って買われると不都合があり、そういう方は冒頭(大学教授の卒業式送辞など)で振り落としていく、という本です。
本に関する感覚というのは、こういう、一瞬のその場その場に出てしまうんだなあ、と思います。そのひとの許容量の限界というか、レッテル貼り、シャットアウト。同人誌即売会だとそういう個人の限界には慣れていて、単にnot for me/youということになり、無言で立ち去るという作法で表現されます。

モヤっとポイント①と同じですが、読書の幅を自分で狭めている行為で、もったいないなあと思います。よけいなお世話ですが。

 

仙台旅行

ということで二週連続イベント参加が終わり、その翌週の土日で仙台旅行に行きました。ブックハンターセンダイというイベントに委託をお願いしているので、その様子見がてら、温泉に入ったりおいしいものを食べたり飲んだりしたいという旅です。

行きの高速バスでこの日記を書いたりしたのですが、それ以外は消費者として過ごし、観光したり同人誌を買ったり、仙台の路地裏で日本酒を飲んだり、秋保温泉に行ったりしました。

小説に関しては、単に消費者であった年月よりも作り手である年月のほうが長く、その点消費者としてみることがあまりできないのですが、でも、「お金を出す」ということも政治的な行為だよなあと思います。自分の願望を叶えるためにお金を出す、という一面とともに、お金を出した相手、場へのささやかな助力であるし、その行為を他人に示すことで、自分がその「場」を支持していることを社会的に明示している。その支持は全面的でないにしろ、お金を出すくらいには支持している。逆に、「お金を受け取る」ことも政治的な行為です。お金を受け取る「場」の支持になる。「場」は、ウェブ上のサービス(カクヨムとかなろうとか)であったり、通販プラットフォームだったり、即売会のようなイベントであったりします。

「暴力への加担」

さいきん、出版社・ウェブサービスなどの文字メディアや、演劇・映画などの業界を構成するひとたちの差別・ハラスメント・暴力行為をよく耳にします。それは発信される作品自体が内包していることもあるし、組織内部で行われたハラスメント(しばしば加害者本人の行為だけでなく、組織としてそれをどう処理したかも問題になります)であることもあります。ピクシブ社は係争中のハラスメントを抱えているし、わたしはそのなかの組織としての処分のあり方におおきな疑問を持っています。上記のような業界のひとたちはそれを生業にして、金銭を得ている。商業行為なわけで、一般企業と同じように社会的責任があるとともに、社会に与える影響という意味では、(たくさんの情報を伝え、たくさんの受け手の情動を動かすという点で)ほかの業界以上に強いと言えます。

商業媒体とひとくくりにしていいとは思いますが、そういった「情報の作り手」たちの暴力行為に、自分という作り手にして消費者が、どう向き合い、「政治的な行為」を行うか。日々問い直していて、正直にいえば、作り手としては発表の・流通の場がどんどんせばまっていくのを感じます。カクヨムは贈賄の容疑のかけられた役員のいるカドカワの媒体だし、ピクシブは既述の通りだし、そのピクシブが出展している文フリはどうすればいいのか。文フリについては、共催として企業が入っているわけではなく、ピクシブは一出展者なので、その場を共有するしかないように思います。でもピクシブ袋はいらん。

その組織のなかにこころあるひとがいるなら、それを支援すればよいのではないか、という考え方もあります。そう、トランス差別言説をウェブ上に載せた早川書房も、セクシュアルマイノリティ差別の言説を雑誌に載せた新潮社も、すばらしい作品を出版しています。でも、わたしは覚えている。それによって踏みつけられたひとたち、命の危機にさらされたひとたちがいるということを。

わたし(たち)は引き裂かれています。でも、ひとつひとつ、できることをやるしかない。差別的な言説を拒否し、批判し、それが載った媒体にはお金を出さない。自分の作品を提供しない。好きな作家や必要なテーマの本がそこから出版されたら、買わざるをえないかもしれない。でも、口をつぐまなくともよいのです。黙っていることは肯定になってしまう。口をつぐんでいる商業作家たちについて、わたしはとても恐ろしいです。なんの恐怖かというと、かれらが自分が差別者に加担し、暴力を肯定しているということを社会的に示している、その自分の状態を是認していることに対する恐怖です。自分の本が出版された会社について名指しで批判しなくとも、その恐怖から免れることはできるだろうに、そうしない。その無恥、鈍感さ、自分は被差別者・暴力の被害者にはなりえないという根拠のない楽観主義に、わたしは心底恐怖を覚えます。かれら自身もまた、いまはそうでなくても、いずれ差別的な言説を蒔くことになるだろうという予感もしています。

経済的面を見ると、差別や既存の暴力構造を温存する表象というのは、現状儲かります。快楽を得られて、自分はこのまま(の考え方)でよいのだという安心感を、受け手にもたらすからです。商業作家でないわたしはその原理からは逃れられるのですが、お金がからんでいようがいまいが、どの媒体で表現をしていようが、その原理にからめ取られて安住することに、金銭以外ではなにも利点はないのだと言い切りたいと思います。だってだれかを命の危機に追いやっている。それ以上なにか説明が必要でしょうか。そして、差別は儲からないと言うために、自分の政治的行動を使いたいと思っています。

一方で、儲かるということに焦点を当てすぎることも避けたいです。個人としては生きていくのに十分なお金を得ること、お金持ちになること、社会においては経済的成長。それらは表現や芸術に頼らなくてもできることです。才能がなくても、市場原理に従った作品を作らなくても生きていけるようにするのは、国家の役割です。市場原理は法律によって規制することができ、差別を儲からないようにすることも可能です。

自分の表現に関する政治的行為を駆使しながら、発言し、デモをし、選挙に行く。そうした当たり前のことを、粛々としていく必要があります。

つづき↓

 

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