鹿紙堂奇想譚

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同人誌読書記録2

 

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↑その1はこちら。さいきん読んだ同人誌を無軌道に述べます。

 

ますく堂なまけもの叢書③『NUDEという物語 横浜美術館「ヌード 英国テート・コレクションより」』2018年

美術館の企画展にみんなで行ってよってたかってああだこうだ言う座談会と、それにまつわる文集。えっ楽しそうだな……それぞれの関心と志向によって、話がいろいろ広がるのがよい。益岡さんの小説は「えっどうしてそれを思いついたの……(笑)」という感じ。

 

ますく堂なまけもの叢書⑪『矢川澄子というひと~緊急事態下に『妹たちへ』を読む~』2022年

わたしは読んだことのない本についてみんなでよってたかってああだこうだ言う座談会と、それにまつわる文集。読んだこともないしあまり関心もないのだが、関心があるひとたちについては興味がすこしあるので、なんか読んでしまった。わたしがちいさいころまでは共有されていた、「少女」を対象とするあれやこれや、いまはほぼほぼわたしは忘れ果てているのだが、たしかに80年代や90年代までは生きていて、そこにつよく執着したひとびとがいるというのは、今考えるとわりとたいへんなことだな~と思う。その界隈と、いま賑わっているフェミニズムや百合とは、断絶があるようでいて歴史はつながっており、「ことば」がなかったせいで言い表せなかった時代について考えた。益岡さんの小説は常軌を逸しており「えっどうしてそれを思いついたの……(驚後笑)」という感じ。

 

柊らし『息づく断片』おとといあさって、2022年

同人界にそびえる天才であるらし氏のショートショート集。やばい。

#創作2022_23 回顧と展望

あけましておめでとうございます。一次創作同人小説書き・鹿紙路です。得意なのは百合です。お餅はフライパンでこんがり焼いてピーナッツクリーム付けて食べるのが好き!!

 

毎年やってる表記企画ですが、前回はこんなの

 

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でした。苦闘! 苦闘している! なぜなら二年間新刊が出なかったからだ!! うるせえやるぞ!!!(なにを)

 

幸いなことに2022年11月に新刊は出ました。死ぬかと思った。

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何回でも貼っていきたい。東アフリカ三つの時代百合380頁通販価格3300円表紙題字活版印刷です押忍。

今振り返るとですね、2022年の初め~新刊発刊まで、ほぼもう新刊のことしか考えていないので記憶があやふやです。なにしてたんだろうね……ええ原稿を……。追い詰められすぎて入稿前ブルーとか新刊頒布開始前ブルーとかになった。精神がたいへんだった。

精神が疲弊しすぎていろいろ神経に障るようになり、それをぶつぶつ日記に書いたものなどもここにありますがまあ、最近はだいぶ回復してきたので平静です。

さいきんは、医療や福祉におけるナラティヴ・アプローチについての本などを読んでいます。物語りの力についての確信と疑問を掌中でこねこねしています。あと海外文学読みたいよ~とりあえず……と思って読み始めた李良枝セレクション、厚くて純文学? なので海外文学脳にはむつかしいというか肌触りに慣れないので苦戦しているのですがもうすぐ読み終わる。80年代の自意識とか女性観が非常にしんどい。終わったらマイケル・オンダーチェかイーユン・リーかチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ読みたい。ところで国書刊行会さんウィリアム・トレヴァーコレクション新刊はいつ出るんで……??

 

今年の予定ですが、新刊は出ません。もしかしたら……小説じゃないやつが出るかもだが……。小説の新刊は来年5月の予定です。幻想の南アジア世界で18世紀の史実が語られる、建築と染織とナラティヴをめぐる小説の予定ですので、南アジア関係の本をたくさん読もうと思います。日本人インド好きだからたくさん本ある。ダイジョブダイジョブ

 

仕事の繁忙期が10月だったため、去年は「残業時間が作品の質に直結する」という恐怖体験をしてしまい、出すなら11月じゃなく5月だな、と思っているので当分は5月に出す予定でいます。

 

技法の話ですが、Tideはいいアプリというか習慣になったので、

 

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今後も続ける予定でいます。コワーキングスペースはとうぶんいらなそう。

 

体調はわりかし良いです。体力もついてきたので、あすけんを始めてダイエットしようとしています。食事や運動に関する解像度が上がった。酒……カロリーやばいな……。カロリーと満腹度は比例せず、肉はタンパク質だからというよりは脂質が多いからヤバイということは理解した。脂と糖分の与える脳への強烈な快楽と、どう付き合っていこうかな~とは思っています。

 

早春まではインプットに努めて、資料読みもせず、春先から資料読みを始めて、夏頃には書き始めたい。とりあえずいまは心身を養生します……。

 

参加イベントは、今月の文フリ京都以降は、4月のTAMAコミ、6月の文フリ岩手、までは申込をしています。来年の新刊の試し読みとかができたら秋の文フリ東京参加はよいかもしれない。

 

今年のスタンスは「ゆっくり考える」です。よろしゅう。

同人誌読書記録

年末年始休み、すこし時間が取れたので積みまくっていた同人誌をすこしずーつ読んでいるのですが、きのうは二冊読み終わりました。どちらも「うん、同人誌!!」という、書き手の情熱の詰まったご本でした。

 

柴田太郎『短編創作集 満州国残照』中国貨車研究会、2015

戦前の満州を舞台にした短編小説集。え……これを……数百円で買えたのか……??(買い値は覚えていないですが)という、書き手の満州への情熱の籠もった本でした。当時の新聞記事とか同窓会誌とかを読まれている。途中でいきなりクトゥルフ神話になって度肝を抜かれ、ユムシを画像検索してしまった……。


ヰスタリア会『中島敦トリビュート 光と風と夢の続き』2017

中島敦愛をビシビシ感じるアンソロジー。最後の矢口水晶「八戒の憂鬱」で猪八戒視点で語られる猪八戒のヤバイ過去、とてもそそるものがあった。

こんぱいにっき 文学を書く同人の政治的address(3) 

(1)→

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(2)→

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他人との「わかる」の解像度を上げる

同じく同人をやっているひとと話していて、当たり前ですが似ていることを考えている部分とそうでない部分があります。コロナ前はよくやっていたイベント後の打ち上げなどで、「わかるわかる~」と言い合っていたことを思い出します。自分はたくさん売りたいのか、だとすればどれくらい売りたいのか、同人仲間とどうつき合いたいのか、なにに楽しさを感じるのか。それはひとによって違うのであって、それぞれの違いを短いアフターや飲み会で言語化して共有するのは限界があります。あなたとわたしはほんとうに「同じ」なのか、「わかり」合っているのか、「共感」の中身はなにか、ふと疑問に思うことがあります。

わたしの周囲では文フリ(がピクシブ社にそのまま来場者無償配布を許したこと)に対する違和感や、「売る」にまつわるマイナスのイメージがある程度共有されているのですが、はたしてそれはほんとうに同質のものでしょうか。

同質でなかったからと言って、自分の交友関係や行動が変わるわけではありません。ただ、親しく語り合い、連帯してきたひとたちは自分とは違う人間である、ということをもういちど確認したいと思います。

ひとつひとつ言語化して、すりあわせをする必要を感じています。なぜなら論理で暴力を拒否しなければならないからです。ふわっとした共感や連帯感では、力を持てません。モヤっと違和感を持ち、傷つき、その場を去っているだけでは、どんどん生きる場所を奪われていきます。戦わなければならないと言いたいわけではありません。ただ考え、黙らず、わずかにでも行動する必要があります。

侮辱/攻撃と怒り/拒否の精度

ここでわたしの弱点の話をしたいと思います。これまで書いたことのようなことを、じゃあどうやってやったらいいのかという話です。わたしはよくことばがきついと言われます。実生活でも、ネット上のつき合いでも。仕事上では、ほかのひとでは訊きにくいことを訊いたり、現状を分析したりするのに使われ、私生活では、事象に対する評価のことばで使われたりします。悪い面ばかりではないのですが、「侮辱している」「攻撃している」「弾劾している」と受け取られることも多いです。わたしとしては、なにか指摘をした際、相手の人格を否定する意図は毛頭なく、ただそのひとの行動の問題点が見えたので言っています。その行動を改善してほしい、やめてほしいと言っているだけです。たぶんそういったことが原因で親しいひとから去られたことが何回かありましたが、そこから感じたこととしては、「わたしのことばが過重となるひともいる」ということです。おそらく分量や濃度の問題なのかもしれません。だから、いちど親しくなってから離れるということが起こりえるのです。そして、わたしの言動や行動が、相手を自分より下に落とそうとしたり、傷つけて力を奪い、そのひとのなんらかの活動を妨害しているようにも感じられるのでしょう。

そういう面もあるのだと思います。わたしはある種の創作や文学、歴史学をめぐる言説には命の危機に直結するほどの強い恐怖を感じがちで、それは、それらの分野が自分自身の根幹にちかいところを占めているからです。わたしはマイノリティであり、歴史修正主義的な営みに強い恐怖を持っています。歴史修正主義歴史学を破壊し、マイノリティを踏みつぶした歴史を知っているからです。具体的には第二次世界大戦ですが、それによって死んだ何百万人のことを考えます。わたしはいつでも恐怖が再燃する不安から嗅覚をきかせて、言説を嗅ぎまわり、そのにおいを感じた瞬間に吠えたてることが多い。しかし、どう考えても、恐怖を感じているのは問題の感じられる行為自体であり、その行為を行ったひと自身ではありません。自分だって、誤った行為をする可能性があり、実際なんども間違ってきたからです。

行為を批判することは無礼で、侮辱で、親しい間柄には許されないのでしょうか。いまだにそこはよくわかっていませんが、とりあえずは、そう感じるひとがいるということであり、そのひとたちにはわたしの恐怖はあまり理解されないということです。その「わからなさ」を放置できないのがわたしの弱点です。だいたい人間はわかりあえないので、ただ認め合うことだけが求められていますが、親しさややさしさ、ふわっとした連帯よりも、論理的なすりあわせを求めてしまうのです。個人的な交友関係でも。しかもそこには、恐怖という感情がもたらす、激しいことば、執拗な繰り返しが含まれています。激しさも執拗さも主観的なもので、その主観の基準の最低限を定めたものが、礼儀というものなのでしょう。と考えれば、わたしは礼儀を欠いているのです。

それと「トーンポリシングでは?」という疑問の二つのあいだで、わたしは引き裂かれています。

感情、友情や親愛の情というのは、日々の粛々とした政治的行為と両立するものでしょう。相手を尊重し、意見の合わない部分は「置いて」おく。そうしたことは、だれにでもできることではないと思いますが、努力すればできる可能性のあることです。

その恐怖や怒りは、他者にぶつける必要のあるものなのか。相手は、自分のことばを必要としているのか。そうしたことは考えてもわかりませんが、そのときそのときで、事前に申告して同意を得てする必要があるのでしょう。その冷静さをもてないときは、ひとりでじっとしていたほうがよい。

仕事上のつき合いであれば、法律が守ってくれるし、私生活という逃げ場もあるので、ビジネスマナーに沿って機械的に行えばいいことでも、同人活動やその周辺の人付き合いでは、なかなか難しい。剥き出しなものがぶつかってしまい、深く傷つく可能性があるのです。でも、わたしの恐怖も、わたしの根幹にあるものなので、冷静さと感情のあいだで、試行錯誤し続けるしかないのです。

 

という中途半端なかたちで、この日記を終えます。つづく。

こんぱいにっき 文学を書く同人の政治的address(2) 

(1)→

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読書会、古本市

文フリ後の平日は、出張があったり、通販の発送をしたりとバタバタし、イベントの疲れがあまり取れないまま次のイベントとなりました。土曜日に自治体の施設での読書会があり、自分の好きな本について語るとともに翌日の古本市の宣伝をし、日曜には本八幡屋上古本市でした。古本市に参加するのは初めてだったのですが、同人誌即売会と似ているところもあり、違っているところもあり、という感じでした。

似ているところ

本を売る場である。ZINEや同人誌なども売れる。売る本について売り手が詳しい。アマチュアが多く参加している(プロもいる)。出展者がほかの出展者の本を買ってくれる。

違うところ

お客さん(同人誌即売会でいうところの「一般参加者」)はお客さんのつもりできているので、小銭・千円札を用意するという習慣はなく、お釣りがすぐなくなる(いままで貯まっていた千円札と百円玉がすぐなくなりました)。屋外なので風で飛ぶからポスターや垂直方向への軽い掲示物は不可(設営時なんどか吹っ飛ばされたのであきらめた)。地元のひとがくる。古本なので予算感は低め。
開始前と閉場後に主催の方の挨拶がある。
主催の方にくさやをもらった(これは本八幡屋上古本市だからです)。

古いビルの四階まで本や設営用品を運ぶのが体力的にすこしきつかった。二の腕が筋肉痛になった。

モヤっとポイント①

※一般論として書いているので、発言をした方を攻撃したいわけではないです。
読書会や古本市の、普段同人誌を見慣れていない方、同人誌即売会に行ったことのない方を含めた場でよく言われたのですが、「これって同人誌なの?」ということ。いや、「これはわたしが出した同人誌です」って言ってるんだが……。厚みや、本の内容について、同人誌としては不審である、という感じで言われました。いや、同人誌だが……。どうもわたし以外の一部のひとと、わたしの同人誌観(?)はずれているようで、わたしは単に形態(商業出版ではない、個人や団体がつくったもの全般)としてこのことばを使っているのですが、発言をされた方としては「薄い、素人が作った拙いもの」として同人誌を認識しているようです。そういう認識だと、「同人誌」の中身に対して制約を設けることになるわけで、作り手としてはもったいないなあ、と思います。まあ、同人誌つくらないひとにはどうでもいいことだと思いますが。

わたしも同人誌を作り始めのころは、アマチュアが作ったものだから、拙くてもある程度は許される、まあ頒布数には影響するけど……という認識でおり、そこに安堵して作り続けていたのですが、そのスタンスをほかの本や作り手に向け、そこに限定して考えるのは違うよなあ、と思います。

モヤっとポイント②

歴史を題材にした、そこそこの冊数を参考文献に上げた小説を書いています、これがその本です、と言うと「博識ですね」とか「難しそう」と言われます。いや、こういうこと自体は良い悪いの問題ではなく、そう言うひともいるだろうというのはわかる。本に対する感覚というのは、これまでのそのひとの読書歴・傾向や、ジャンルに対する先入観というのが関係していて、それを書き手がどうこうできるわけではないです。わたしもテッド・チャンと聞くと「難しそう」と思ってしまう。同人誌即売会だと、事前に本の内容やジャンルを知っている方が買いに来られるので、ほとんどそういうことはないのですが、今回はよく言われました。
博識ではないし難しいものでもないのですが、まあこれは個人の感覚ですからね……。楽しいエンタメだと思って買われると不都合があり、そういう方は冒頭(大学教授の卒業式送辞など)で振り落としていく、という本です。
本に関する感覚というのは、こういう、一瞬のその場その場に出てしまうんだなあ、と思います。そのひとの許容量の限界というか、レッテル貼り、シャットアウト。同人誌即売会だとそういう個人の限界には慣れていて、単にnot for me/youということになり、無言で立ち去るという作法で表現されます。

モヤっとポイント①と同じですが、読書の幅を自分で狭めている行為で、もったいないなあと思います。よけいなお世話ですが。

 

仙台旅行

ということで二週連続イベント参加が終わり、その翌週の土日で仙台旅行に行きました。ブックハンターセンダイというイベントに委託をお願いしているので、その様子見がてら、温泉に入ったりおいしいものを食べたり飲んだりしたいという旅です。

行きの高速バスでこの日記を書いたりしたのですが、それ以外は消費者として過ごし、観光したり同人誌を買ったり、仙台の路地裏で日本酒を飲んだり、秋保温泉に行ったりしました。

小説に関しては、単に消費者であった年月よりも作り手である年月のほうが長く、その点消費者としてみることがあまりできないのですが、でも、「お金を出す」ということも政治的な行為だよなあと思います。自分の願望を叶えるためにお金を出す、という一面とともに、お金を出した相手、場へのささやかな助力であるし、その行為を他人に示すことで、自分がその「場」を支持していることを社会的に明示している。その支持は全面的でないにしろ、お金を出すくらいには支持している。逆に、「お金を受け取る」ことも政治的な行為です。お金を受け取る「場」の支持になる。「場」は、ウェブ上のサービス(カクヨムとかなろうとか)であったり、通販プラットフォームだったり、即売会のようなイベントであったりします。

「暴力への加担」

さいきん、出版社・ウェブサービスなどの文字メディアや、演劇・映画などの業界を構成するひとたちの差別・ハラスメント・暴力行為をよく耳にします。それは発信される作品自体が内包していることもあるし、組織内部で行われたハラスメント(しばしば加害者本人の行為だけでなく、組織としてそれをどう処理したかも問題になります)であることもあります。ピクシブ社は係争中のハラスメントを抱えているし、わたしはそのなかの組織としての処分のあり方におおきな疑問を持っています。上記のような業界のひとたちはそれを生業にして、金銭を得ている。商業行為なわけで、一般企業と同じように社会的責任があるとともに、社会に与える影響という意味では、(たくさんの情報を伝え、たくさんの受け手の情動を動かすという点で)ほかの業界以上に強いと言えます。

商業媒体とひとくくりにしていいとは思いますが、そういった「情報の作り手」たちの暴力行為に、自分という作り手にして消費者が、どう向き合い、「政治的な行為」を行うか。日々問い直していて、正直にいえば、作り手としては発表の・流通の場がどんどんせばまっていくのを感じます。カクヨムは贈賄の容疑のかけられた役員のいるカドカワの媒体だし、ピクシブは既述の通りだし、そのピクシブが出展している文フリはどうすればいいのか。文フリについては、共催として企業が入っているわけではなく、ピクシブは一出展者なので、その場を共有するしかないように思います。でもピクシブ袋はいらん。

その組織のなかにこころあるひとがいるなら、それを支援すればよいのではないか、という考え方もあります。そう、トランス差別言説をウェブ上に載せた早川書房も、セクシュアルマイノリティ差別の言説を雑誌に載せた新潮社も、すばらしい作品を出版しています。でも、わたしは覚えている。それによって踏みつけられたひとたち、命の危機にさらされたひとたちがいるということを。

わたし(たち)は引き裂かれています。でも、ひとつひとつ、できることをやるしかない。差別的な言説を拒否し、批判し、それが載った媒体にはお金を出さない。自分の作品を提供しない。好きな作家や必要なテーマの本がそこから出版されたら、買わざるをえないかもしれない。でも、口をつぐまなくともよいのです。黙っていることは肯定になってしまう。口をつぐんでいる商業作家たちについて、わたしはとても恐ろしいです。なんの恐怖かというと、かれらが自分が差別者に加担し、暴力を肯定しているということを社会的に示している、その自分の状態を是認していることに対する恐怖です。自分の本が出版された会社について名指しで批判しなくとも、その恐怖から免れることはできるだろうに、そうしない。その無恥、鈍感さ、自分は被差別者・暴力の被害者にはなりえないという根拠のない楽観主義に、わたしは心底恐怖を覚えます。かれら自身もまた、いまはそうでなくても、いずれ差別的な言説を蒔くことになるだろうという予感もしています。

経済的面を見ると、差別や既存の暴力構造を温存する表象というのは、現状儲かります。快楽を得られて、自分はこのまま(の考え方)でよいのだという安心感を、受け手にもたらすからです。商業作家でないわたしはその原理からは逃れられるのですが、お金がからんでいようがいまいが、どの媒体で表現をしていようが、その原理にからめ取られて安住することに、金銭以外ではなにも利点はないのだと言い切りたいと思います。だってだれかを命の危機に追いやっている。それ以上なにか説明が必要でしょうか。そして、差別は儲からないと言うために、自分の政治的行動を使いたいと思っています。

一方で、儲かるということに焦点を当てすぎることも避けたいです。個人としては生きていくのに十分なお金を得ること、お金持ちになること、社会においては経済的成長。それらは表現や芸術に頼らなくてもできることです。才能がなくても、市場原理に従った作品を作らなくても生きていけるようにするのは、国家の役割です。市場原理は法律によって規制することができ、差別を儲からないようにすることも可能です。

自分の表現に関する政治的行為を駆使しながら、発言し、デモをし、選挙に行く。そうした当たり前のことを、粛々としていく必要があります。

つづき↓

 

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こんぱいにっき 文学を書く同人の政治的address(1) 

新刊発刊→毎休日イベント参加でもろもろ朦朧としているのですが、そのなかで感じたことを書き留めておきたく、書いておきます。

この記事(全3回)にはこんなことが含まれています

  • 文学フリマ東京、本八幡屋上古本市、ブックハンターセンダイにかこつけた仙台旅行の感想
  • 新刊発行とイベント参加で精神が疲労困憊したなかで認知がゆがみ、いろんなことがいちいち気になってしまったこと
  • 小説というメディアが娯楽に乗っ取られることによって起こる不誠実、傲慢、無責任
  • わたしは読者に「満足」してほしくない
  • これをやれば目立てる、売れる、という策を講じていくと、自分の表現からはどんどん離れてしまう
  • 読書の幅を自分で狭めている行為
  • 「暴力への加担」に抗する政治的営為
  • 論理で暴力を拒否するために
  • 侮辱/攻撃と怒り/拒否の精度

 

新刊が出た

表紙は自分でキンコーズ秋葉原秋葉原がいちばんなんとかなる。オタク嘘つかない)で刷ったものを活版所に送り、表1を刷ってもらってそれを京都のちょこっとさんに送る、という三段階を経て完成。一週間前に自宅着、そこから別に刷っていた帯を巻いて、ブックハンターセンダイと文フリ東京の宅配搬入に発送。380ページ、本文は淡クリームキンマリ70kg。めちゃ分厚い。背幅18.1mm。とりあえずきれいにできた。重いし開くのにすこし力がいるが。これはこの作品自体の趣旨に合っているので(さらっと読んでもらいたくない)、いいかな、と思っています。通販やってます!

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今回の本を書いているうちに至った境地については、本のあとがきやペーパーにはすこし書いたのですが、以下の通り。

(1)書くジャンルについて

もうエンタメは書けない。自分の書くものをエンタメに寄せてしまうことに対して大きな疑問がある。疑問というのは、「世界に対して不誠実で傲慢で無責任なことをしてしまうのではないか?」ということ。

娯楽というのは「対象を消費する」「(負の感情が湧き出ること含め)楽しむ」ことにつながると思うのですが、対象が実在しないものであるにしろ、実在の文化や人物を扱っているにしろ、消費し、楽しむことって、対象を搾取することのように思える。そして、対象が存在する文脈や構造を温存する。世界を変えられない。どの世界でも、世界はたくさんの問題点や矛盾を持っているのですが、それを批判することができない。それは、対象に対して不誠実で傲慢だし、対象を扱うという行動に対する責任が伴っていない。

どうしてそんなに究極的に考えてしまうのか、趣味なんだから楽しくやればいいのでは、という点についてですが、「少なくともわたしは」小説を書くという行為は趣味ではないし、楽しんでもいない。必要だから書き、書いているあいだは死にそうになるくらいしんどい。もし収益化がうまくいって、それで十分な利益を得られるようになったとしても、それは変わらないのだと思う。必要でないものは、楽しくても書かないだろう。「必要」というのは、世界を学んだわたしが自分の判断で必要だと思うのですが、それは「世界に必要とされている」という感覚にちかい。これは自分が世界に対してどうしたいか、という感覚につよく紐付いているわけですが、わたしは世界を変えたいです。いま生きている世界が問題に満ちているので。だから、世界を変えることに対する責任として、娯楽からは降りたい。娯楽を拒みたい。うまくいくかはわからないけれども。

ジャンル分けというものに対してもおおきな疑問がある。日本のエンタメと純文学のような、単純な二項対立の設定についても。降りたり拒んだりしても、娯楽はどのジャンルにも存在していて、乗っ取りをたくらむことになる。いまわたしはエンタメということばでくくっているけれども、実際は読み手の内面の微細な変化のことであって、でもそれによって、経済活動が起こって、流行や潮流がかたちづくられる。そしてその流行や潮流によって、不誠実や傲慢さ、無責任さが肥大化し、人間や人間の集団を踏みつぶしてしまう。

(2)登場人物について

(1)に関係して、「対象」である登場人物についても、架空もしくは実在にかかわらず、「娯楽」では消費されてしまう。それによって起こることは、フィクションであるにもかかわらず、特定の属性に対するステレオタイプ化、偏見の強化であったりする。わかりやすいのは、歴史小説によって、歴史学上の史実とはちがうことが流布してしまうという例だが、わたしは、フィクションとはひらかれたものであるべきだと思う。一から十までは説明せず、三や五や七は読者に想像してもらう。読者もそれは自分の想像であると自覚できるもの。想像であって、物語の真実ではなく、読むひとによって変化し、揺らぎ、あるいは空白として残るもの。
「予想は裏切っても期待は裏切るな」とはエンタメの作劇方法としてよく聞く話だが、物語に対する自分の期待以外のものを読者は求めていないはずだ、というのは、失礼な話ではないだろうか。「期待」を「欲望」と言い換えてもいいだろう。人間が物語に欲望するものとは、つまり現実を様式に収めることだ。いくら情動が動かされても、物語の世界を様式にあてはめて安堵すること。そこに揺らぎや空白はない。揺らぎが空白があれば、人間は不安に思う。わたしは読者に「満足」してほしくない。わたしの小説を起点にして、不安に思い、考え、動いてほしい。それが消費や搾取ではないあり方だからだ。そのための窓が、登場人物だ。かれら彼女らは、読者の欲望を満たすためではなく、自分自身の人生をただ生きて死ぬ。その生と死に責任を持つのが、作家の役割であると思う。

イベント中に感じたこと 

プラカードを作って首から下げ、スペースにも貼っておきました。何人かが、「それいいですね」と言い、おひとりはその写真を取り、おひとりは「反トランス差別についての本を頒布しているのか」とおたずねになりました(ZINEを発行しているサークルさんを紹介しました)。その日はピクシブ社が袋を配布しているということはなく、代わりにnoteがコットンのトートバッグを配布していました。noteも拒絶したいブランド(?)だったので、無駄に使われることになった綿花と労働のことを思いながら捨てました。

いつも通り開場直後には自分のスペースにはひとはあまり来ないので、地元のパン屋さんで買ったお昼のパンを食べ、たまに買い物に出たりしながら新刊を頒布しました。長編で高価なので、あまり初めましての方はおられず、お知り合いが買っていかれました。ありがとうございます。既刊もそこそこ売れ、特に『根を編むひとびと』については、ポスターの効果を感じました。歴史古典島だったのに百合SFが売れたのは、ポスターのおかげな気がする。

終わりがけに、第二展示場のほうに行き、新刊を献本していたひとり出版社さんに挨拶に行ったら、分厚い写真集をくださったのもうれしかったです。

アフターは楢川えりかさんと四つ木の「リトル・エチオピア」というエチオピア料理店へ。四つ木というのは、エチオピア人コミュニティのあるところらしく、エチオピア人だったりそうじゃなかったりするひとたちでにぎわっていて、インジェラ(テフという穀物を粉にして発酵させた灰色のクレープ状の主食。ちょっと酸っぱい)がおかずの汁を吸ってぼろぼろになるのに格闘しつつ手で食べる体験をしてきました。あとコーヒーを頼んだら隣のグループがセレモニー込みのメニューだったせいか、豆を煎っているフライパンを見せに来てくれたり、乳香を焚いて嗅がせてくれたり、ハーブ的な葉っぱを二杯目に入れるのをやってみたりして「エチオピアの文化を知りたい」願望をすべからく叶えてくれました。

どうしてこのお店に行ったかというと、わたしも楢川さんも「文フリでエチオピア関係の本を出したほぼ唯二のサークル」だったからということで……。別のお店でエチオピア料理自体は食べたことがあったのですが、こちらだと体験できることが多いとのことで選んでみました。

という感じで当日はやーやーお疲れお疲れ! 新刊を出した奴が世界一偉い! という気持ちで終えたのですが、新刊の準備やイベントの準備に、ここ数週間走り続けたせいか、精神的な疲労(体力的にはそんなに疲れていない)がこたえてしまい、いろんなことが疑問に思えてきました。

イベントという場、売り方

文学フリマ東京は、文章系の同人誌即売会としては日本一の規模のイベントと言えるし、参加するひとはアマチュアが多いけれどプロ(商業作家や出版社)もいる場なわけで、それぞれのサークルで売り方に対するスタンスはちがうわけです。100円のコピー本を10部売るサークルもあれば、丁寧に装丁の考えられたハードカバーの本を段ボール何箱と売るところもある。わたしはといえば、今回は印刷所に刷ってもらった高めの同人誌を持って行きました。そのなかで、事前のSNSなどによる宣伝や、著者の知名度、それまでの実績など、いろんな要素により、頒布数は変わってくる。個人の努力でなんとかなる面もあれば、運や参加したときのステータスによる面もある。基本はみんな「自分の本が売れてほしい、読まれてほしい」という気持ち(じゃないひともいると思いますが)でスペースにいるわけです。
わたしはそういうおおきな欲望の場に、なんだか疲れてきてしまいました。アピールしなければ売れないというのもわかるし、それをやめられるとも思っていないのですが、正直にいえば自分の本は勝手に売れていってほしいし読まれてほしい。そこに努力のリソースをあまり使いたくない。じゃあどうしたらいいかというとあまり具体的な案は思い浮かばないのですが。
この疲れにはそれなりの背景があるようで、上記の「売れたいという欲望」が、表層的なキャッチーさ(どぎついわりにはあまり深いところを表現できていないキャッチコピー、○○賞受賞や○次選考通過、メディアミックス、装丁の奇抜さなど)に現れているように見えてしまい、「それは、あなたの表現したいことなのか?」という疑問がどんどん膨らんでくるのです。これをやれば目立てる、売れる、という策を講じていくと、自分の表現からはどんどん離れてしまう。これはわたしの場合そう思うというだけで、ほかの方の内面でなにが起きているかはわからないし、決めつけるつもりもないのですが、わたしは自分の人生が、自分の表現したいことを表現するには短いと思っている人間なので、そういう「表現したいことからどんどん離れる」状態になっている時間はないのです。しかし、イベントという場を借りて頒布している以上、「売れたいという欲望のために策を講じている営み」のちかくにいなければならない。声も聞こえるし話もする、目に見える、という状態になる。そこが疲れにつながったのかな、と思っています。

つづき↓

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