鹿紙堂奇想譚

そらをふむ きみのあしおとを きいている

こんぱいにっき 文学を書く同人の政治的address(3) 

(1)→

michishikagami.hatenablog.com

(2)→

michishikagami.hatenablog.com

他人との「わかる」の解像度を上げる

同じく同人をやっているひとと話していて、当たり前ですが似ていることを考えている部分とそうでない部分があります。コロナ前はよくやっていたイベント後の打ち上げなどで、「わかるわかる~」と言い合っていたことを思い出します。自分はたくさん売りたいのか、だとすればどれくらい売りたいのか、同人仲間とどうつき合いたいのか、なにに楽しさを感じるのか。それはひとによって違うのであって、それぞれの違いを短いアフターや飲み会で言語化して共有するのは限界があります。あなたとわたしはほんとうに「同じ」なのか、「わかり」合っているのか、「共感」の中身はなにか、ふと疑問に思うことがあります。

わたしの周囲では文フリ(がピクシブ社にそのまま来場者無償配布を許したこと)に対する違和感や、「売る」にまつわるマイナスのイメージがある程度共有されているのですが、はたしてそれはほんとうに同質のものでしょうか。

同質でなかったからと言って、自分の交友関係や行動が変わるわけではありません。ただ、親しく語り合い、連帯してきたひとたちは自分とは違う人間である、ということをもういちど確認したいと思います。

ひとつひとつ言語化して、すりあわせをする必要を感じています。なぜなら論理で暴力を拒否しなければならないからです。ふわっとした共感や連帯感では、力を持てません。モヤっと違和感を持ち、傷つき、その場を去っているだけでは、どんどん生きる場所を奪われていきます。戦わなければならないと言いたいわけではありません。ただ考え、黙らず、わずかにでも行動する必要があります。

侮辱/攻撃と怒り/拒否の精度

ここでわたしの弱点の話をしたいと思います。これまで書いたことのようなことを、じゃあどうやってやったらいいのかという話です。わたしはよくことばがきついと言われます。実生活でも、ネット上のつき合いでも。仕事上では、ほかのひとでは訊きにくいことを訊いたり、現状を分析したりするのに使われ、私生活では、事象に対する評価のことばで使われたりします。悪い面ばかりではないのですが、「侮辱している」「攻撃している」「弾劾している」と受け取られることも多いです。わたしとしては、なにか指摘をした際、相手の人格を否定する意図は毛頭なく、ただそのひとの行動の問題点が見えたので言っています。その行動を改善してほしい、やめてほしいと言っているだけです。たぶんそういったことが原因で親しいひとから去られたことが何回かありましたが、そこから感じたこととしては、「わたしのことばが過重となるひともいる」ということです。おそらく分量や濃度の問題なのかもしれません。だから、いちど親しくなってから離れるということが起こりえるのです。そして、わたしの言動や行動が、相手を自分より下に落とそうとしたり、傷つけて力を奪い、そのひとのなんらかの活動を妨害しているようにも感じられるのでしょう。

そういう面もあるのだと思います。わたしはある種の創作や文学、歴史学をめぐる言説には命の危機に直結するほどの強い恐怖を感じがちで、それは、それらの分野が自分自身の根幹にちかいところを占めているからです。わたしはマイノリティであり、歴史修正主義的な営みに強い恐怖を持っています。歴史修正主義歴史学を破壊し、マイノリティを踏みつぶした歴史を知っているからです。具体的には第二次世界大戦ですが、それによって死んだ何百万人のことを考えます。わたしはいつでも恐怖が再燃する不安から嗅覚をきかせて、言説を嗅ぎまわり、そのにおいを感じた瞬間に吠えたてることが多い。しかし、どう考えても、恐怖を感じているのは問題の感じられる行為自体であり、その行為を行ったひと自身ではありません。自分だって、誤った行為をする可能性があり、実際なんども間違ってきたからです。

行為を批判することは無礼で、侮辱で、親しい間柄には許されないのでしょうか。いまだにそこはよくわかっていませんが、とりあえずは、そう感じるひとがいるということであり、そのひとたちにはわたしの恐怖はあまり理解されないということです。その「わからなさ」を放置できないのがわたしの弱点です。だいたい人間はわかりあえないので、ただ認め合うことだけが求められていますが、親しさややさしさ、ふわっとした連帯よりも、論理的なすりあわせを求めてしまうのです。個人的な交友関係でも。しかもそこには、恐怖という感情がもたらす、激しいことば、執拗な繰り返しが含まれています。激しさも執拗さも主観的なもので、その主観の基準の最低限を定めたものが、礼儀というものなのでしょう。と考えれば、わたしは礼儀を欠いているのです。

それと「トーンポリシングでは?」という疑問の二つのあいだで、わたしは引き裂かれています。

感情、友情や親愛の情というのは、日々の粛々とした政治的行為と両立するものでしょう。相手を尊重し、意見の合わない部分は「置いて」おく。そうしたことは、だれにでもできることではないと思いますが、努力すればできる可能性のあることです。

その恐怖や怒りは、他者にぶつける必要のあるものなのか。相手は、自分のことばを必要としているのか。そうしたことは考えてもわかりませんが、そのときそのときで、事前に申告して同意を得てする必要があるのでしょう。その冷静さをもてないときは、ひとりでじっとしていたほうがよい。

仕事上のつき合いであれば、法律が守ってくれるし、私生活という逃げ場もあるので、ビジネスマナーに沿って機械的に行えばいいことでも、同人活動やその周辺の人付き合いでは、なかなか難しい。剥き出しなものがぶつかってしまい、深く傷つく可能性があるのです。でも、わたしの恐怖も、わたしの根幹にあるものなので、冷静さと感情のあいだで、試行錯誤し続けるしかないのです。

 

という中途半端なかたちで、この日記を終えます。つづく。