鹿紙堂奇想譚

そらをふむ きみのあしおとを きいている

こんぱいにっき 文学を書く同人の政治的address(1) 

新刊発刊→毎休日イベント参加でもろもろ朦朧としているのですが、そのなかで感じたことを書き留めておきたく、書いておきます。

この記事(全3回)にはこんなことが含まれています

  • 文学フリマ東京、本八幡屋上古本市、ブックハンターセンダイにかこつけた仙台旅行の感想
  • 新刊発行とイベント参加で精神が疲労困憊したなかで認知がゆがみ、いろんなことがいちいち気になってしまったこと
  • 小説というメディアが娯楽に乗っ取られることによって起こる不誠実、傲慢、無責任
  • わたしは読者に「満足」してほしくない
  • これをやれば目立てる、売れる、という策を講じていくと、自分の表現からはどんどん離れてしまう
  • 読書の幅を自分で狭めている行為
  • 「暴力への加担」に抗する政治的営為
  • 論理で暴力を拒否するために
  • 侮辱/攻撃と怒り/拒否の精度

 

新刊が出た

表紙は自分でキンコーズ秋葉原秋葉原がいちばんなんとかなる。オタク嘘つかない)で刷ったものを活版所に送り、表1を刷ってもらってそれを京都のちょこっとさんに送る、という三段階を経て完成。一週間前に自宅着、そこから別に刷っていた帯を巻いて、ブックハンターセンダイと文フリ東京の宅配搬入に発送。380ページ、本文は淡クリームキンマリ70kg。めちゃ分厚い。背幅18.1mm。とりあえずきれいにできた。重いし開くのにすこし力がいるが。これはこの作品自体の趣旨に合っているので(さらっと読んでもらいたくない)、いいかな、と思っています。通販やってます!

pictspace.net

今回の本を書いているうちに至った境地については、本のあとがきやペーパーにはすこし書いたのですが、以下の通り。

(1)書くジャンルについて

もうエンタメは書けない。自分の書くものをエンタメに寄せてしまうことに対して大きな疑問がある。疑問というのは、「世界に対して不誠実で傲慢で無責任なことをしてしまうのではないか?」ということ。

娯楽というのは「対象を消費する」「(負の感情が湧き出ること含め)楽しむ」ことにつながると思うのですが、対象が実在しないものであるにしろ、実在の文化や人物を扱っているにしろ、消費し、楽しむことって、対象を搾取することのように思える。そして、対象が存在する文脈や構造を温存する。世界を変えられない。どの世界でも、世界はたくさんの問題点や矛盾を持っているのですが、それを批判することができない。それは、対象に対して不誠実で傲慢だし、対象を扱うという行動に対する責任が伴っていない。

どうしてそんなに究極的に考えてしまうのか、趣味なんだから楽しくやればいいのでは、という点についてですが、「少なくともわたしは」小説を書くという行為は趣味ではないし、楽しんでもいない。必要だから書き、書いているあいだは死にそうになるくらいしんどい。もし収益化がうまくいって、それで十分な利益を得られるようになったとしても、それは変わらないのだと思う。必要でないものは、楽しくても書かないだろう。「必要」というのは、世界を学んだわたしが自分の判断で必要だと思うのですが、それは「世界に必要とされている」という感覚にちかい。これは自分が世界に対してどうしたいか、という感覚につよく紐付いているわけですが、わたしは世界を変えたいです。いま生きている世界が問題に満ちているので。だから、世界を変えることに対する責任として、娯楽からは降りたい。娯楽を拒みたい。うまくいくかはわからないけれども。

ジャンル分けというものに対してもおおきな疑問がある。日本のエンタメと純文学のような、単純な二項対立の設定についても。降りたり拒んだりしても、娯楽はどのジャンルにも存在していて、乗っ取りをたくらむことになる。いまわたしはエンタメということばでくくっているけれども、実際は読み手の内面の微細な変化のことであって、でもそれによって、経済活動が起こって、流行や潮流がかたちづくられる。そしてその流行や潮流によって、不誠実や傲慢さ、無責任さが肥大化し、人間や人間の集団を踏みつぶしてしまう。

(2)登場人物について

(1)に関係して、「対象」である登場人物についても、架空もしくは実在にかかわらず、「娯楽」では消費されてしまう。それによって起こることは、フィクションであるにもかかわらず、特定の属性に対するステレオタイプ化、偏見の強化であったりする。わかりやすいのは、歴史小説によって、歴史学上の史実とはちがうことが流布してしまうという例だが、わたしは、フィクションとはひらかれたものであるべきだと思う。一から十までは説明せず、三や五や七は読者に想像してもらう。読者もそれは自分の想像であると自覚できるもの。想像であって、物語の真実ではなく、読むひとによって変化し、揺らぎ、あるいは空白として残るもの。
「予想は裏切っても期待は裏切るな」とはエンタメの作劇方法としてよく聞く話だが、物語に対する自分の期待以外のものを読者は求めていないはずだ、というのは、失礼な話ではないだろうか。「期待」を「欲望」と言い換えてもいいだろう。人間が物語に欲望するものとは、つまり現実を様式に収めることだ。いくら情動が動かされても、物語の世界を様式にあてはめて安堵すること。そこに揺らぎや空白はない。揺らぎが空白があれば、人間は不安に思う。わたしは読者に「満足」してほしくない。わたしの小説を起点にして、不安に思い、考え、動いてほしい。それが消費や搾取ではないあり方だからだ。そのための窓が、登場人物だ。かれら彼女らは、読者の欲望を満たすためではなく、自分自身の人生をただ生きて死ぬ。その生と死に責任を持つのが、作家の役割であると思う。

イベント中に感じたこと 

プラカードを作って首から下げ、スペースにも貼っておきました。何人かが、「それいいですね」と言い、おひとりはその写真を取り、おひとりは「反トランス差別についての本を頒布しているのか」とおたずねになりました(ZINEを発行しているサークルさんを紹介しました)。その日はピクシブ社が袋を配布しているということはなく、代わりにnoteがコットンのトートバッグを配布していました。noteも拒絶したいブランド(?)だったので、無駄に使われることになった綿花と労働のことを思いながら捨てました。

いつも通り開場直後には自分のスペースにはひとはあまり来ないので、地元のパン屋さんで買ったお昼のパンを食べ、たまに買い物に出たりしながら新刊を頒布しました。長編で高価なので、あまり初めましての方はおられず、お知り合いが買っていかれました。ありがとうございます。既刊もそこそこ売れ、特に『根を編むひとびと』については、ポスターの効果を感じました。歴史古典島だったのに百合SFが売れたのは、ポスターのおかげな気がする。

終わりがけに、第二展示場のほうに行き、新刊を献本していたひとり出版社さんに挨拶に行ったら、分厚い写真集をくださったのもうれしかったです。

アフターは楢川えりかさんと四つ木の「リトル・エチオピア」というエチオピア料理店へ。四つ木というのは、エチオピア人コミュニティのあるところらしく、エチオピア人だったりそうじゃなかったりするひとたちでにぎわっていて、インジェラ(テフという穀物を粉にして発酵させた灰色のクレープ状の主食。ちょっと酸っぱい)がおかずの汁を吸ってぼろぼろになるのに格闘しつつ手で食べる体験をしてきました。あとコーヒーを頼んだら隣のグループがセレモニー込みのメニューだったせいか、豆を煎っているフライパンを見せに来てくれたり、乳香を焚いて嗅がせてくれたり、ハーブ的な葉っぱを二杯目に入れるのをやってみたりして「エチオピアの文化を知りたい」願望をすべからく叶えてくれました。

どうしてこのお店に行ったかというと、わたしも楢川さんも「文フリでエチオピア関係の本を出したほぼ唯二のサークル」だったからということで……。別のお店でエチオピア料理自体は食べたことがあったのですが、こちらだと体験できることが多いとのことで選んでみました。

という感じで当日はやーやーお疲れお疲れ! 新刊を出した奴が世界一偉い! という気持ちで終えたのですが、新刊の準備やイベントの準備に、ここ数週間走り続けたせいか、精神的な疲労(体力的にはそんなに疲れていない)がこたえてしまい、いろんなことが疑問に思えてきました。

イベントという場、売り方

文学フリマ東京は、文章系の同人誌即売会としては日本一の規模のイベントと言えるし、参加するひとはアマチュアが多いけれどプロ(商業作家や出版社)もいる場なわけで、それぞれのサークルで売り方に対するスタンスはちがうわけです。100円のコピー本を10部売るサークルもあれば、丁寧に装丁の考えられたハードカバーの本を段ボール何箱と売るところもある。わたしはといえば、今回は印刷所に刷ってもらった高めの同人誌を持って行きました。そのなかで、事前のSNSなどによる宣伝や、著者の知名度、それまでの実績など、いろんな要素により、頒布数は変わってくる。個人の努力でなんとかなる面もあれば、運や参加したときのステータスによる面もある。基本はみんな「自分の本が売れてほしい、読まれてほしい」という気持ち(じゃないひともいると思いますが)でスペースにいるわけです。
わたしはそういうおおきな欲望の場に、なんだか疲れてきてしまいました。アピールしなければ売れないというのもわかるし、それをやめられるとも思っていないのですが、正直にいえば自分の本は勝手に売れていってほしいし読まれてほしい。そこに努力のリソースをあまり使いたくない。じゃあどうしたらいいかというとあまり具体的な案は思い浮かばないのですが。
この疲れにはそれなりの背景があるようで、上記の「売れたいという欲望」が、表層的なキャッチーさ(どぎついわりにはあまり深いところを表現できていないキャッチコピー、○○賞受賞や○次選考通過、メディアミックス、装丁の奇抜さなど)に現れているように見えてしまい、「それは、あなたの表現したいことなのか?」という疑問がどんどん膨らんでくるのです。これをやれば目立てる、売れる、という策を講じていくと、自分の表現からはどんどん離れてしまう。これはわたしの場合そう思うというだけで、ほかの方の内面でなにが起きているかはわからないし、決めつけるつもりもないのですが、わたしは自分の人生が、自分の表現したいことを表現するには短いと思っている人間なので、そういう「表現したいことからどんどん離れる」状態になっている時間はないのです。しかし、イベントという場を借りて頒布している以上、「売れたいという欲望のために策を講じている営み」のちかくにいなければならない。声も聞こえるし話もする、目に見える、という状態になる。そこが疲れにつながったのかな、と思っています。

つづき↓

michishikagami.hatenablog.com