鹿紙堂奇想譚

そらをふむ きみのあしおとを きいている

風野湊『すべての樹木は光』感想

こちらでは初めてのこころみですが、同人誌の感想を載せようと思います。

風野湊さんの『すべての樹木は光』

kokyushobo.booth.pm

です。先日の31回文フリ東京で入手しました。

というのも、Twitterで書くには長くなりそうで、カクヨムでわたしの文章としてランキングや評価の対象になるのも違うかな、と思ったので、こちらで書きます。

 

文フリの前の宣伝をTwitterで見かけたので興味を持ったのですが、入手して付属のペーパーにこちらの作品の参考文献が載っており、それが拙作『根を編むひとびと』と二冊重複していたのもふしぎなご縁です。関心や志向が自分と重なる部分があるんじゃないか、と期待しつつご本を開きました。

 

読み始めて、序章の「つかみ」で引き込まれ、主人公の視点に焦点が合ってくると同時に、文体が非常に好みでした。「情景」で描写される風景は、使われることばは淡々としていて、押しつけがましくないのですが、その風景の「特有の美しさ」をさらさらと表現していて、読んでいてここちがよいのです。この文章のなかで滞在していたい……という気持ちになります。

 

ある「家族」の物語です。けれどかれらは血のつながりがない組み合わせもあり、主人公の母とその父(ということになっているひと)はなにか良からぬことが起こり、しばらく断絶していたらしいことが示唆されます。その上、主人公の祖父には「兄」ということになっている「青年」がいて……と、ネタバレを避けるとカギ括弧で括らざるをえないことがらが頻出します。加えて、人間が樹木になる可能性がある世界、祖父の若い頃には戦争があった世界、ということになります。冒頭のつかみと、「樹木になる」可能性が、物語全体をひりひりとしたものにしています。頭の隅にはずっと存在する可能性にじりじりしながら、主人公ユハのまなざしに沿って、読者は物語に滞在します。

 

いままで触れた樹木変身譚というと、ギリシア神話などがぼんやり思い浮かぶのですが、そこだと現世の課題を解決するために変身する、という形です。物語なのだから、物語の必要から変身をするわけです。ただ、この小説だと、どうして人間が樹木に変わるのか、明確な説明はありません。けれども、現世に絶望した人間が樹木に変わろうとする意思を持つ、ということはわかります。その絶望が、この作品のなかで常にさらさらと頭上に降り続けるのです。

 

とりわけ裕福なわけでも貧しいわけでもない、つましい暮らしをしている「家族」の、問題ぶくみの日常を描きながら、ユハのまなざしに沿って、悲しみやさみしさ、笑いや美しさを感じ取ることができます。ただ、悪意もなくやさしさを持ち暮らしていて、しかし魔法を失ってしまう。ユハのまなざしに沿いながら、一方で引いた視線の地の文も読んで、読者はそれを納得するのです。

 

樹木は神経も脳もなく、人間の持っているような形の「感情」や「知性」はありません。けれど、――これは拙作『根を編むひとびと』の参考文献で読んだのですが――樹木も触れられれば感じ取り、光や雨を認識し、根に住んでいる菌類と共同で栄養を得る、別の意味での知性を持っているそうです。そういったことはこの作品でも示唆されていて、変身したときの知性についても言及があります。わたしは疑問に思います――樹木に変身するとは、なんのメタファーなのだろうか? 絶望からの逃避? 理不尽な不幸? どうもそうではなさそうです。作品のなかのフラットな語り口と、淡々として、でも美しさを差し出す情景描写から、「木になる」ことも、ある別の意味での生であると。世界を構成するひとつの命であることは、人間として生きることとは形はちがうけれど、同じく生であると。そういうふうに受け取りました。

 

ストーリーの引きはありつつ、小説全体でひとつの世界を提示し、そこに読者を滞在させる。そんな作品だと思います。面白かったです。