鹿紙堂奇想譚

そらをふむ きみのあしおとを きいている

八束『光や風にさえ』感想

自分と同じ場で新刊を出された八束さんの『光や風にさえ』、文フリ東京で手に入れて読み終わりました。

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スペイン語圏の南米のような土地に移民してきた女性の一人称を中心にした物語。試し読みなどを拝読した限りでは、近代日本から南米に移民した女性の話なのかな、と思っていたら(なにしろ「そう」思わせる空気や密度があるので)、日本やスペインなど、実在の国名や文化は出てくるのですが、惑星間移民や義体化技術があるのに人種や性別に関する感覚は戦前並みという、SFというかファンタジーというか、という世界観。ただしジャンル小説的な焦点はあまりなく、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』やアンソニー・ドーア『メモリー・ウォール』のように文学として読めます。

 

また同じ場で出た新刊であるオカワダアキナさんの『イサド住み』や

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拙作『征服されざる千年』のように、ナラティブをめぐる小説でもあります。

 

「できない」ということを見つめた小説です。

主人公ナオミは自閉症スペクトラム。他人とのかかわりの深さに困難があり、結婚や家庭においてうまくいかない。ナオミを連れ出すマヤは足が不自由で、ほかにもからだに障害を持っているらしく、働くことができない。このふたりの道行きが本書の大部分を占めます。ナオミが介護していた姑のソネ子は認知症ですし、道々出会うのは、事故で大けがをして、認知能力を失った「少女」や義体化の進んだ娼婦などの、「できない」ことを抱えた女たち。

 

主人公の語りを読んでいても、この「できない」の正体がなんなのか、見えにくくなっています。彼女は自分が「ばか」なために叶う望みのない、他人と深い「絆」を結びたいという感情を「しがみ」生きていますが、読み手としては彼女はまったくばかには見えないし、ほかのひととの受け答えにもあまり不自然さはありません。しかしそれは語り手が彼女自身だから、彼女が理解し把握した世界を語ったものだからです。

 

冒頭とラストで小説をくるんでいるパートでも、病で「できない」に取り囲まれた女性が出てきて、さらに「断章」では、ナオミたちに構造としてはほぼ一緒の環境にいた女性の語りが出てきます。それらが、互いが互いを語り、互いを夢みているように反響しあっています。

 

泥沼を進むような彼女たちの苦しみの人生のなかで、「できない」ことの正体は明かされず、楽しみはささやかで、でも、女たちの生は積み重なり続ける。美しさや楽しさというよりは、真実をまじまじと見つめるような、情動というよりも理知的な栄養のある小説です。

 

同時期に読んでいた(まだ読み終わっていない)『なしのたわむれ』という往復書簡集(欧州在住の俳人古楽奏者の)にも日系ブラジル移民の詠んだ俳句が出てきて、それは「日本語」という、そのものが風土であるものを使って異国を表現することについての文章だったのですが、この物語も、SFファンタジーや歴史物的な言語を用いながら、「できない」に肉薄していく力を持っています。