鹿紙堂奇想譚

そらをふむ きみのあしおとを きいている

所与の条件のなかで書き続けること。なんのために。

 きょうツイッターで流れてきた記事を読んで、なんだか自分も書いてみたくなったので、書いてみようと思う。

 わたしが小説を書き始めたのは小学生のころで、中学のころにノート一冊分の長編を書き上げたあとは、高校時代はショートショートというか掌編しか書けず、大学に入ってから長編を書き始めて、書き終わらず、そのまま社会人になった。
 仕事は忙しくて、毎日残業をして、土曜日は夕方まで寝て、小説は書く気もなく、マンガしか読めなくなり、とうとう病気になった。傷病休暇をフルに使ってから復職しても遅刻や欠勤が多く、結局会社都合にするからやめてくれと言われ、首を切られた。
 傷病休暇中は、ずっと小説を書いていた。朝起きて一時間くらい散歩をし、二日で二千字くらいを書く。ネットでは「疑似ニート」と言っていたが、その間で一本長編を書き、電撃大賞に応募した。一次も通らなくて、自分の努力はいったいなんだったのか、と呆然とした。
 学生のころは、というか小学生のころから、ずっと作家になりたくて、そのためにあらゆることをした。大学はそのために必要だと思ったのと、単純に興味があったので史学科に入った。たくさんフィクション・ノンフィクション問わず本を読んだり映画を見たりし、ワナビスレをROMり、旅行に行った。それが、大学のころか、社会人に入ってからか、その欲求が薄れていった。
 自分は、作家にならなくても生きていける。
 お金を得る方法はいろいろある。てっきり自分はコミュ障なんだと思っていたのが、社会人経験である程度、仕事をする分には問題ないスキルが得られたし、小説を書かなくなったら死ぬというわけでもない。
 一方で、病気になってから長編をいくつか完結させた。ウェブ媒体や同人誌即売会で受け手からの評価もたくさんもらった。それが自信にもなったし、自分を知るきっかけにもなった。
 自分が得たいもの、欲望の方向がはっきり見えてきた。
 作品の対価を受け取って、その対価だけで生活をする、ということに対しては、あればいいだろうけど、ないと死んでしまうことではない。
 それよりももっと得たいものがある。それは作品外のものではなく、作品のなかのことだ。
 わたしには崇拝する作家が何人かいる。どの作家も、すさまじく文章がうまく、それでいて作劇にも秀で、人間に対する洞察力が鋭い。わたしもそういう小説を書きたい。かれらは海外の作家で、日本の出版界で名付けられたジャンルにはそぐわないことが多い。娯楽でもないし純文学でもない。ジャンル小説としての歴史小説やSFという評価も当たらない。わたしが自分の審美眼に叶う小説が書けて、それを公募に出したとしても、日本の出版界ではうまく生かせないと思う。こればかりは出会いや運もあるだろうが。そして、生かしてもらうことはいまはとてもどうでもいい。
 あの場所にたどり着くには、途方もない労力がかかるだろう。けれど、やってみたい。所与の条件のなかで。自分の人生が続く限り。

 そのためにはどうしたらいいのか?

 持続可能な生活をする事でしかないと思う。自分の健康を損なわず、自分が快いと思うことをして、ストレスから遠ざかり、それを可能にするための金銭を得て。執筆以外のすべてをなげうつことは愚の骨頂だ。なげうってしまえば、生活がなりたたなくなる。そうすれば小説も書けなくなる。だから、余暇のとれる仕事で最低限の金銭を得て、出勤前の一番クリアな時間に小説を書き、隙間時間に本を読んで、楽しいことをし、遊んで暮らす。それだけを目指していきたい。

 自分にできることは限られている。病気はすっかり治るような種類のものではなく、いまでもたまに身動きできない日があり、突発的なことで精神状態が「落ち」て何日も食欲がなくなったり悪夢を見て飛びおきたりする。それでも、以前に比べればたくさん本を読めるし、一日に書ける文字数も何倍にもなった。
 わたしは一回、いろんなものを失った。二度と取り戻せないものもたくさんある。けれど、いま手にしているものを大事にしたいと思う。もしかしたら、手にしているものは今後増えるかもしれない。しかしそれは、なにかを犠牲にして得るものではない。低空飛行を続けて、いけそうだと思ったら、少しずつ増やすものだ。
 創作まわりのことでの、自分の欲求がどんどんシンプルになっていく。自分の満足する小説を書くこと。それだけだ。けれど、そのためには多様な努力が必要で、それをこなしていくことに、わりと喜びを感じている。書くための準備をして、書くことはとてもこころ楽しいことだ。好きか嫌いかというと、好きでも嫌いでもないのだが、新たにいろんな世界を発見していくことがとても楽しい。だから、必要に迫られて、いろいろなことをしている。